現在の教育の〇〇をなくす その2
現在の教育に当たり前のように組み込まれているものについて、もしもそれを無くしてみたらどうか?と根本から再考しています。
前回の続きを書きます。
前回は「カリキュラム」について再考してみました。
学年をなくす
学年という枠は必要でしょうか?
子どもたちの能力は多様です。深度も進度も異なります。同じ偏差値帯で入学した同じ学校の子たちでも、すぐにバラバラになります。そもそも偏差値で測れない能力の要因が大きいのかもしれませんね...
となると、全員が同じカリキュラムを同じ進度で進める必要はありませんよね。
できる子はどんどん進め、まだできない子にはできるまで付き合う仕組みが必要かと思います。学年間で教え合ったり学び合ったりするのも良いと思います。
先輩と後輩、知っている人と知らない人、両者にとって学びはあります。
国は、異なる学年での協働学習に注目して動き出そうとしています。
同一学年集団の学習に加えて、異年齢・異学年集団での協働学習が拡大していくこと
引用:「Society 5.0に向けた人材育成~社会が変わる、学びが変わる~」(文部科学省)
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/06/06/1405844_002.pdf
飛び級や留年の制度が日本にも導入されたらどうなるんでしょうね。
一時期その議論もありましたが、諸外国の様相をそのままマネするのは危険な気がします。飛び級や留年をした子たちへの適切な対応をできる先生や制度、文化をどうやって用意するかを考えなければなりませんね。
参考:
授業をなくす
授業は必要でしょうか?
前項の文部科学省の報告書には以下のようなことも書かれています。
学校がこれまでの一斉一律の授業のみならず、個人の進度や能力等に応じた学びの場となること
確かに「個人」の視点だと授業はいらないかもしれません。個々が習得すべきコンテンツをITツールを使ってアダプティブに学習をすれば言い訳ですから。
ですが、「集団」がいないと習得できないスキルもありますよね。
他の人に自分の考えをわかりやすく説明スキルや、他の人の考えを取り入れて自分の考えをアップデートするスキルなどは、「個人」では習得できないスキルかもしれません。このようなスキルの習得を目的とした、アクティブラーニングのような活動は、授業として必要にはなると思います。
社会に出てからも、何かプロジェクトを遂行するには他の人と協働しなくてはなりませんからね。
つまり、教科を習得する目的だけの授業は淘汰され、協働したり共創したりするPBLのような授業は必要になってきますね。
教育の〇〇をなくす、次回に続きます。
次回